御祭神:木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと) 御神徳:安産、子授け
由緒
わら天神宮の正式名称は「敷地神社(しきちじんじゃ)」といい、その起源は北山の神という山を神格化した存在でした。
天長5(828)年の大雨、大地震の際、時の淳和天皇が北山の神に幣帛を奉られた旨が『類聚国史(るいじゅうこくし)』に記載されており、その創建は平安時代以前と推定されます。
天長8(831)年、この地に氷室が設けられることとなり、その夫役として加賀国の人々が移住してきました。彼らは移住にあたり、崇敬していた菅生石部神(すごういそべのかみ)の分霊を勧請し、御祭神をその御母、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と定め、北山の神の西隣に祀りました。
応永4(1397)年、足利三代将軍義満による北山第(後の鹿苑寺(金閣寺))の造営にあたり参拝に不便となったことから、両社を合祀して現在地へ遷座、社号を菅生石部神社の通称である「敷地神社」としました。その後は応仁の乱などで一時荒廃しましたが、仮社殿を設けて御神徳を受け継ぎ、弘化4(1847)年の大補修、昭和10(1935)年の改修を経て現在に至ります。
「わら天神宮」の名称について
当神社では古来より稲わらで編んだ籠で神饌を捧げており、やがて抜け落ちたわらを、安産を願う妊婦さんが持ち帰るようになりました。のちにそのわらを切り取り、安産のお守りとして妊婦さんに授与するようになったのです。
そのわらのお守りの珍しさから「わら天神宮」という通称名が広まり、定着しました。
~わら天神宮境内には、
本社以外にもお社(やしろ)が鎮座しております。~
六勝神社ろくしょうじんじゃ
六勝神社は、伊勢、石清水、賀茂、松尾、稲荷、春日の六柱神(二十二社、上七社のうち平野以外)をお祀りした神社で、平安京遷都の際、平野神社の地主として勧請され、当初は六所神社、六請明神社等と称されていました。貞観元(859)年に初めて祭祀を行い、その後西園寺家の鎮守として崇敬されてきました。
古くから、必勝、成功、開運及び商売繁盛の守護神として崇敬を集めており、明治6(1873)年、敷地神社境内に遷座される際、社号を「必勝」の意によって六勝神社と改めました。
末社 大山祇神社おおやまつみじんじゃ
大山祇神はわら天神宮の御祭神木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の父神です。瀬戸内海の大三島に鎮座する大山祇神社は、全国の山祇神社、三島神社の総本社であり、源氏、平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈りました。
当大山祇神社もそのような神社の一つです。
末社 綾杉明神あやすぎみょうじん
樹齢千数百年に及ぶ神木綾杉の霊を祀るもので、あやとは、黒いという意味とも、木目のこととも、葉に綾があるからだとも言われています。三十六歌仙の一人、清原元輔(きよはらのもとすけ)(清少納言の父)の次の和歌が「拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)」に撰録されており、平安時代当時すでに著名であったことが分かります。
「生(ひ)繁れ平野の原の綾杉よ、濃き紫に立ちかさぬべく」
明治29(1896)年8月の暴風により倒壊しましたが、昔から神木として崇敬する者が多いため、残った幹に素屋根をかけ、「綾杉明神」として祀るようになりました。
末社 八幡神社はちまんじんじゃ
八幡神社は、大分の宇佐八幡宮を発祥の地とし、平安初期に男山の地に石清水八幡宮、平安末期に鎌倉に鶴岡八幡宮が勧請され、その後日本全国に勧請されるようになり、その数は約25,000社にのぼるといわれています。源頼朝が鎌倉に幕府を開くとともに鶴岡八幡宮を関東総鎮守として崇敬するようになった後は、武家の守護神として御家人の移住に伴い全国に分祀されていきました。
当八幡神社もそのような神社の一つであり、明治40(1907)年、衣笠氷室町よりこの地に遷座されてきました。